マルハンの創業者 韓昌祐の妹の統一教会韓鶴子に日本統一教会2.5億円の給与が支払われていることが文春砲にて発覚

韓昌祐1972年に設立し(創業は1957年)、2023年8月現在、徳島県島根県沖縄県を除く全国313店舗を展開するパチンコホール最大手企業である。2009年3月期に売上高が2兆円を突破し、業界2位のダイナム(2009年3月期・約9,706億円)を倍以上上回った。

株式公開(上場)を目指し東京証券取引所と協議をした過去があるが、別のパチンコホール企業がジャスダックに上場申請した際に、「パチンコホールの営業形態には完全に合法とは言い切れない側面があり、厳密な意味で投資家の保護を保証できない」という理由で上場申請を却下された事例[注 1] があることから、日本国内での株式公開は今のところ極めて厳しいとされている。

各種レジャー産業にとどまらず金融業への進出もはかっており、2008年5月22日にはカンボジアでマルハンジャパン銀行(現・サタパナ銀行)を開業している。 同行はカンボジアで初めて日本企業の出資により開業する商業銀行である。また、同行はカンボジア国内でシェア2位[注 2]を獲得している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/マルハン

韓 昌祐(ハン・チャンウ、かん しょうゆう、Han Chang-Woo[3]1931年2月15日[2][1] – )は、日本実業家。大手パチンコ店グループ・マルハンの創業者で代表取締役会長[2]公益財団法人韓昌祐・哲文化財団名誉最高顧問[1]

来歴

朝鮮慶尚南道泗川郡(現・泗川市)三千浦で[1]小作農をする家庭に生まれる。別名・西原昌佑[要出典][4]

1945年10月21日、 日本でレンガ工をしていた実兄の招きを受けて密航船に乗り込み、同年10月22日山口県下関市から日本へ密入国[5]、日本の特別永住者資格を取得した[5]

その後、朝鮮奨学会の支援を得て法政大学経済学部に進学[5]1952年に卒業した。就職先のなかった韓は、京都府中郡峰山町(現・京丹後市)において「千波 峰山店」の屋号でパチンコ台20台を抱えるパチンコ店を展開していた義兄のところへ身を寄せ、その後義兄からパチンコ店事業を継承し、「ぱちんこ峰山カジノ店」に屋号を変更[注 1]1957年にはパチンコ事業で稼いだ資金を元手に喫茶店「るーちぇ」の経営に着手した(マルハンの創業)。

1967年には当時日本で流行していたボウリングに着目し、「豊岡フレンドボウル」名義でボウリング場事業を始めた。「ボウルアピア」を静岡市で開業した1972年の時点で、行きすぎた拡張戦略のために60億円の借金を抱えることとなった[注 2][6]同年「西原産業株式会社(現・株式会社マルハン)」も設立しており、巨額の借金を抱えた韓は返済のために本業のパチンコ事業に本腰を入れ、必死な事業活動を展開したことで、1986年3月にボウリング場事業の借金を完済した。

1995年には「マルハンコーポレーション」に社名変更して本社を京都市に移転。1995年にはマルハンパチンコタワーを開店。東京進出も果たし、マルハンを最大手のパチンコ店へと成長させるまでに至った[5]

1999年には日本国政府より勲三等瑞宝章を授与された[5]

2016年には日本国政府より二度目の紺綬褒章を授与された。

小学校時代の後輩に日本ボクシング連盟前会長の山根明がいる[7]

https://ja.wikipedia.org/wiki/韓昌祐

韓 鶴子朝鮮語: 한 학자、ハン・ハクチャ、1943年2月10日陰暦1月6日) – )は、世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会。通称: 統一教会、統一協会)の教祖文鮮明の三番目の妻。世界平和統一家庭連合の総裁[1]。関連団体である世界平和女性連合天宙平和連合の総裁。本貫清州韓氏[2]

人物

金聖道率いる朝鮮独自のキリスト教の一派、聖主教の信者であった母の洪順愛(ホン・スネ)が宗教活動に熱中していたため、祖母に育てられたという。やがて順愛は文鮮明を「再臨メシア」と信じる世界平和統一家庭連合の熱心な信者となり、その影響により世界平和統一家庭連合の教えに触れた。17歳のとき、当時40歳であった文鮮明の伴侶として選ばれた。

結婚当時、文鮮明は伴侶が誰か分からない中、天の命によって結婚の準備をしていたが、多くの世界平和統一家庭連合の信徒達の夢に、韓鶴子が配偶者であると明らかにされ、1960年3月27日(陰暦3月1日)に婚約して、4月11日に結婚した[3]

統一教会においては歴史上初めて完成した女性として全人類の「真(まこと)の母」と意義付けされ、教団内では「真のお母様」と呼ばれる。「真の父」であるとされる夫の文鮮明とともに呼ぶときは「真の(御)父母様」(正式には「天地人真の父母様」)と呼ばれる[4]

文鮮明との間に14人の子供(4人は既に他界)と多くの孫を持つ。

1990年頃までは文鮮明と同行して活動することが多かったが、1991年の「世界平和アジア婦人連合」(後の「世界平和女性連合」)創設以降、世界各地を講演で訪問するようになった。また、出入国管理法の規定で日本に入国できない夫の代わりに度々来日している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/韓鶴子